日本を「一等国」にするためには基礎科学に投資を、と高峰譲吉(タカジアスターゼやアドレナリン)は産業界の重鎮渋沢栄一を口説き、産業界から資金を集めようとしました。おりしも第一次世界大戦でてんやわんやのため資金調達は難航しましたが、ドイツからの化学製品の輸入途絶が「化学工業の発達」の重要性を日本に認識させることになります。帝国議会も補助金支出を可決し、ついに「理化学研究所」が発足しました。しかし第一次世界大戦後の不況やインフレ、さらに内部での権力闘争などで研究所の運営は困難を極めました。そんな中で所長を押しつけられたのがまだ若い大河内正敏(貴族院議員)でした。

研究のボス格の人間の半数は自分より年上、という状況で大河内は「主任研究員制度」を取り入れます。「物理部」「化学部」といった固定的な縦割りではなくて、主任研究員が割り当てられた予算の中で人を集め資材を調達し、自分が好むテーマの研究を行う、というやり方です。研究室も、理研内に限定されず、予算だけもらって帝大などで研究することも許されていました。創生期の研究員には、長岡半太郎・鈴木梅太郎・池田菊苗など錚々たるメンバーが名を連ね、やがて寺田寅彦も参加します。

大河内は“殿様”で、「基礎」「研究」「論文発表」を重視し、“放漫経営”を続けました。基金はどんどんやせ細ります。それを救ったのが、鈴木研究室から生まれた「ビタミンAの錠剤(商品名は理研ビタミン)」でした。当時国民病だった結核の患者は栄養補給のためにビタミンも愛好していたため、「理研ビタミン」は大ヒットとなったのです。鈴木研究室からはビタミン関連商品が次々発売され、さらには合成酒まで生み出されています。