川西航空機は、三菱、中島のビッグツーに次ぐ中堅メーカーでした。水上戦闘機や水上偵察機での実績があります。その川西から昭和17年にデビューした水上戦闘機「強風」は改造されて陸上戦闘機「紫電」になりました。元は水上戦闘機ですから、フロートを外して脚をつける、だけではすみません。結局大工事が必要となり、初飛行は17年の大晦日。ただ、当時の海軍は、同時期に開発中だった「雷電」を次期戦闘機の“本命”と見ていて、紫電は“補欠”扱いでした。

この頃、アメリカで開発中のB29についての情報は日本でも知られていました。そのため高高度迎撃戦闘機の開発が始まります。ところが日本のやり方は、陸海軍がそれぞれのメーカーに独自に発注。そのためなんと7種類の戦闘機が同時並行で開発されました。陸海軍としてはお互いに協力したくないし、メーカーを競争させたらその中から一機でも優れたのが出てくるだろう、という思惑だったのでしょう。

だけど、資源も人も時間も足りない状況で、無駄な競争は戦争の足を引っ張るだけです。メーカーは、制式機の量産と同時に新型の開発を、それも複数同時に行うわけで、結局そのしわ寄せは「人」に来ることになりました。開発現場でも過労や病気で人がバタバタと倒れたのです(残業が月に200時間は当たり前だったそうです)。