承久の乱について江戸期の頼山陽は『日本政記』で「志ありて謀なし」としました。具体的には「北条を源氏の“敵”に祭り上げたら、甲斐信濃の源氏を朝廷の味方に取り込めたはずだ」という提案をしています。実際に源実朝は文化的には朝廷サイドに立とうとしていました。後鳥羽上皇は「武士はすべて敵」と思っていたかもしれませんが、「一所懸命」の武士たちですから、内部分裂を誘えばいくらでもつけ込む隙はあったでしょう。しかし北条サイドは「朝廷が武家政権そのものを滅ぼそうとしている」と主張して御家人の結束を高めました。

明治時代、国定教科書では「承久の変」は「あってはならないこと」扱いでした。北条義時は厳しく非難され、明治18年には年表には残されたものの教科書の本文から「承久の変」は消えさります。同時に「建武中興」は明治の王政復古と重ね合わされて高く評価されました。つまり「明治維新」を高く評価するために「建武中興」と「承久の乱(変)」が利用された、とも言えます。興味深いのは、明治~昭和初期に「歴史上の人物(新田義貞、楠正成、など「天皇の忠臣」)」にも贈位が盛んに行われていることです。「敗者」に贈位することで「歴史」に対して「国家」がメッセージを送っています。その中には承久の変(乱)の「敗者」が十数名含まれていました。